「家郷の訓」宮本常一著を読んで

 「女中奉公」という話の中に

秋仕奉公はアラシコとも言った。時期は耕作物の対象によってきまっていなかった。すなわち麦刈時分のものは旧四月に、綿耕作のものは旧七月の盆すぎに、稲刈は旧九月にそれぞれ出ていったのである。その中でも稲の秋仕が一番多かった。  (p24)

というところがある。農作物の刈り入れにあわせて奉公があったそうだが、とても面白いシステムであると思う。
 また次のような話がある。

同じように萩の医家へ奉公に行って後にその正妻となり、その医者が明治維新になってから高官にのぼり、ためにそのひとは緋の袴をはいて、天子様の前へも出たという人もあった。子のなかったために養子をもらったが、そのひとは故里がなつかしくて養子のもとにはおらず、戻ってきて田舎で生涯を終わった。養子は相当の人物で功労によって華族にも列せられた。私はこのおばアさんの晩年をよく知っている。どこかに気品があり、物やさしい人で、一族からもまた村人からも尊敬せられていた。自らの過去の生活を誇る人でもなかったから、村の人もほとんどそいうことを知らなかったけれども母に聞かされたことがある。  (p28)

 奉公にいってそのまま奉公先の正妻となった人の話である。自分のこどもが華族にもなったのにもかかわらず、自分の田舎で生涯をおわらせたとは、ずいぶん謙虚な人である。しかも自分の過去を誇りもしなかったとは。見習うべき人ではないかと思う。
また

このようにして出て行く娘に対して、いつも深い理解と同情をを持っていたの母親であった。母親が娘が見えなくなると、やはり一応は心配して探すような風もし、父親のいうことに調子をあわせているが、真実においてはむしろ逆であった。そして娘の便りのくるまでは知らぬものとしてすごし、娘を悪くいうのが通常であった。しかし悪く言いつつも心配する風も見えず、気を落とす風も少ないので、父親の方もそれとなく気付きまた安心もしてくるのである。娘からの正式の便りは、たいてい送金の時になされるもので、それまでは風のたよりでもあればよい位であった。けれども女親というものはそれほどに案じなかった。娘を信ずることができたからである。信ずるとは、娘が町で健気にはたらいていること、やがてはまた戻って村人と結婚してくれることをである。事実娘たちはこの女親の信を裏切ることが少なかった。むろん旅で嫁になる者もあり、堕落する者もあったけれど、村によい嫁入口がありから戻れろいえば、たいていは戻ってきてそこへと嫁いだのである。  (p29〜p30)

という話がでてくる。父親と母親の役割分担が明確になっており、家出という形はとっているが親の暗黙の了解のもとに遠いところで奉公をしているということに結果的になっていると思う。しかもいずれ村に戻って村の者と結婚することになるのだから、これにこしたことはない。
 しかし、昭和の第2次世界大戦のころになると次のように変わってしまう。 

そのために女中奉公が、親を助けるためのものから、次第に自分の嫁入支度のためになされるようになってきた。そして親が娘の送金額の少ないのをこぼすようになる頃には娘たちは、女中奉公よりも女工の方が収入の多いことに目をつけるようになった。同時にまた村へ女工勧誘員がくるようになって、出奔形式から親の承認の形で出て行く有様になった。親が許して出て行った女たちは自らの親に対する責任感もうすらいで、もはや戻って田舎の人たちとは結婚しようとはしなくなった。これが現在の有様である。  (p31〜p32)

というようにだ。これは現在とほぼ同じスタイルであると思う。なにか以前の出奔スタイルのほうがよかったのではないかという気がする。この「女中奉公」という話は当時の女性の姿が描かれておりとても興味深い話であった。
 「年寄りと孫」の中に

若い妻にはやがて子が出来る。しかしこの母親は毎日家を外にして働かなければならない。朝早く出て行くと昼飯の支度にかえるまでは山にいる。昼飯がすめばまた山である。その間子供は老人のいる家であればばアさんが世話をする。それのいない家では子守をやとう。たいていは親類の娘子どもである。これは別に賃らしいものもやらなかった。私も親類の子などに負われたことがあるというが、私の家には祖父も祖母もいたので老人が一番多く面倒を見た。このようにして六、七歳になるまでは通常祖父母のもとで育てられる。  (p33)

ということが述べられている。これは戦前の子供の育て方のスタイルを語っているものだが、戦前は祖父母や親戚の娘子どもが六七歳になるまで小さい子の面倒ををみたのである。
 また「年寄りと孫」の中に

「昔毛利輝元が昼飯をたべていた。初めは飯をたべ味噌汁をすすっていたが、後に飯に汁をかけてたべだした。ところが、汁のかけ方が足りないと見えてまたかけた。それを毛利元就が見て、輝元は中国十二カ国の大守がつげないであろう。残念だが大将の器でないと言った。そして十二カ国のうち八カ国を天下様に戻して、後四カ国の殿様になって天下の客分になってしまった。」

この話など何度きかされたか分からない。そして「一度やりかけたことは中途で変更するものではない」とよく話してくれた。
織田信長は出世して天子様のお前へ出るようになって御馳走をいただいた。ところが食べ方もろくに知らなかった。戻って来て家の膾の方がうまいと言った。そういう人だから一代でほろびてしまった。人は何でも覚えておくものだ、横座弁慶では人から敬われぬ。」  (p42〜p43)

という話が登場する。これは著者が著者の祖父からよく聞かされた話である。
「一度やりかけたことは中途で変更するものではない」
「人は何でも覚えておくものだ、横座弁慶では敬われぬ」
 この言葉は生きていくうえで大切かつ価値のある言葉であると思う。
「 臍繰りの行方」の中に

私の祖母などは実によくおを績んだ人であった。その貯蓄がなせれたならば相当のお金になっているはずだが、死んだ時には一文もなかった。死の一月ばかり前にその子の一人があげたお金まできれいに使っていた。こうしてヘソクリはためて自らの生活を安楽にするものではなく、施して子供の生活を豊かにさせようとするものであった。ただ私の兄弟の中でこれは私に対してだけそうしたようであった。  (p48)

という話がでてくるが、これは著者の祖母の話である。ヘソクリを自分のことに使うのではなく、子供の生活の豊かさのために使ったそうである。なんともすばらしいことではないか。私もこうありたいと思う。
 また、「臍繰りの行方」の中に

前に書いた九十六で焼死したという老婆など、全くその死は崇高であった。八十近くまでは幸福であったけれども、子の死、家産の整理とあいついで、孫がその苦しい中から起ち上って行った。それまでに婆さんは孫が生まれると一人ずつ、ヘヤヘ引きとってはお績で儲けた金で育てて大きくしては主家へかえした。やっと楽になると思った頃、家産を全部手離しても整理のつかぬ借金のあることが分かった。しかし婆さんは、
「田地は皆までははなすなよ。」
と言ってとうとう一部は売らせなかった。そして今度は曾孫を引きとって育てはじめた。働けるものはみんな外へ出て働かしたのである。  (p49)

という話がある。なんともすばらしい老婆ではないかと思う。孫や曾孫まで育てあげるとはすごいことである。
「田地は皆までははなすなよ」
 これはどういうことを意味しているのであろうか。私が思うにはたぶんこういうことであろうと思う。借金は田地つまり財産を売って返済するのではなく働いて返済しなければだめだということ。田地の一部はなにかあったときに必要になるから残しておきなさいということ。こんなことではないだろうか。
 「母親の心」の中に

ある朝私もそっとこの群にまぎれて神社の前に跪いたことがある。そして傍らで祈っている女親の低いしかし迸り出る熱い声をきいた。旅にいる子供の名をつぎつぎによびあげて、「どうぞマメ(健康)であるように息災なように。もし病気にでもなるようなことがあったら、どうぞこの私をかわらせて頂きたい。たとえどのような苦しみもうけましょうともよろしゅうございます」というのである。しかもこれはこのこの一人の女親だけの言葉ではなかった。すべての女親たちの言葉でもあった。真心をこめてかく祈っているのである。病んで物に感じやすくなっていた当時の私はその時思わず涙をおとしてしまったことを記憶している。親たちはかくまでにその子を愛してその子の命をいたわっているのである。  (p58)

という話がある。親が子を思う気持ちはいつの時代も変わらぬものなのである。とくに女親は。
 また、同じ「母親の心」の中に

荷を背負うと坂道を走るように下りねばならぬ。足がぶるぶるふるえるのである。特に膝頭がよくふるえる。母はそれを「ヒザが笑う」というのだと教えてくれた。  (p78)

とういう部分がある。私にも足がぶるぶるする経験を子供のときによくしたものである。また、それを「ヒザが笑う」といっていた。とても懐かしく感じた部分である。
また、同じ「母親の躾」の中に

かかる教育が完全に行われないと、つい自分のことを棚にあげて「目糞が鼻糞を笑う」といって人にそしられることになる。その言葉がもう少し強くなると「身のほども知らぬ」という非難になる。女たちの陰口が単なる相手の悪口ばかりになり下るまえに、このような批判の世界があったのである。これは村落内の共同生活にはぜひとも必要なことであった。そうしてこれを心得ることによって、人の前で言うべき言葉、言ってはならぬ言葉の判断がおのずからできた。そうして母はよく言った。「人はどれほど出世しても初めの身のほどを忘れてはならぬ」と。  (p89)

というところがある。
「目糞が鼻糞を笑う」
「身のほども知らぬ」
「人はどれほど出世しても初めの身のほどを忘れてはならぬ」
 とても大切なことであると思う。
 人の前で言うべき言葉、言ってはならぬ言葉の判断がおのずからできる。これはとても大事である。
「父親の躾」の中に

一、自分には金が十分にないから思うように勉強させることができぬ。そこで三十まではおまえの意思通りにさせる。私も勘当した気でいる。しかし三十になったら親のあることを思え。また困ったときや病気の時はいつでも親の所へ戻って来い。いつも待っている。
二、酒や煙草は三十までのむな。三十すぎたら好きなようにせよ。
三、金は儲けるのは易い。使うのがむずかしいものだ。
四、身をいたわれ、同時に人もいたわれ。
五、自分の正しいと思うことを行え。  (p117〜p118)

いろいろためになる。とくに、「一」「四」「五」。
 「子供の遊び」(p131)はいろいろな遊びが登場する。やったことあるもの、ないものなどそれぞれであるがとても面白い話である。
 この著書は著者30歳半ばで執筆したそうである。ちょうど第二次世界対戦中である。現在の時代も学ぶべきものがたくさんあると私は思う。