「本格小説(上)(下)」水村美苗著を読んで

 「本格小説(上)(下)」水村美苗著を読んでの感想及び気になった部分を書いてみる。
本格小説(上)
 「本格小説の始まる前の長い長い話」の中に

実力主義のアメリカではセールスマンが高級住宅地に住んだり高級車を乗り回したりするのは信用につながり、それは贅沢である以前に商売の一環だと言えなくもない。  (p124)

というところがある。日本ではあまりそういうところがなく、地味な国産車を乗るような傾向があるような気がするし、高級車に乗っているとあまりよく思われないような感じがする。
 また、同じ「本格小説の始まる前の長い長い話の中の

そもそもの発端は東太郎がユダヤ系のビジネスマンと組んで起こしたという、医療機械を開発する会社にあったらしい。その会社が、天才的な「発明狂」だとされる一人のイスラエル人の医師を中心に据えた、ヴェンチャー・ビジネスに転じたのである。まずはその医師がイスラエルの自分のチームとともに新製品を考え出す。医療関係の新製品であるという以外はよくわからないが、新しいタイプの極小のペースメーカーや尿道に入れて尿失禁を防ぐチューブなどを始めとして、もともと東太郎が胃カメラを扱っていたことから広がっていた人間関係だけあって、身体に付けたり、入れたりする器械が主である。それを次に規制の緩いロシアで人体実験をする。実験が成功し、アメリカでも承認されそうだということになると、今度は東太郎とユダヤ系のビジネスマンの二人で投資家を募り、新製品を商品化する会社を起こす。会社が軌道に乗ったところで、その会社を従業員ごと丸々人に売ってしまう。大企業が買う場合が多いそうだが、会社を起こすのにかかったお金と会社を打ったときに手に入るお金との差額が儲けである。百万ドルの投資に対し、百万ドル儲けさせることもあるという。投資先としての成績がきわめていいのでアメリカ全土から投資家を募るには事欠かないらしいが、常にいくつものプロジェクトを抱えており、投資家が多ければ多いほどそれらのプロジェクトを同時進行させられる。それでバブルが始まったのを幸い、日本の投資家をもとめて日本に始終いくことになったということで、今やアジア全体の台頭を前に華僑とも手を組もうと、そのためにシンガポール、台湾、香港などにも足を延ばしているそうである。(p156〜p157)

というところは面白い。現実に起きているような話のような気がする。いや、現実に起きているのかもしれない。
 「四 DDT」の中に

ー日本の将来をもっといいものにしよう、そのために自然に親しめる環境で子供たちをのびのび育て、その子供たちに新しい日本を創ってもらおうという、まことに結構な理想をもった人たちが、都心からわざわざ、水道もガスもない、蛙が鳴き蛍が飛ぶ武蔵野の田舎へと集まってできた町だったそうです。(p520〜p521)

というところがある。このような心と理想をもった人たちは、どこへいってしまったのだろうか。そんな想いを強くもった。
 また、同じ「四 DDT」の中に

ーあの人たちは、よくもまああんなにしつこいものを食べられるね。なんだか外人さんたちみたいだね。
旅館までお供して戻ってくると、お祖母さまが重光家と三枝家の人たちを評して旦那さまにそんな風に報告なさいます。そして夕食はお二人でおそばか何かで済まされます。
ーああなんであっちのもんの方がいいっていうのも、妙だね。
お祖母さまはそうおっしゃってから、旦那さまにお訊きになります。
ーほんとうに、何でもあっちのもんがいいのかね。
ーまあ、医学も一般的には漢方より蘭学の方が効いたわけですからね、西洋方がより科学的であったということは言えるでしょう。
旦那さまはこんなときでも生真面目に応えられます。
旦那さまは各駅停車に乗って追分までいらっしゃたりもします。戦死してしまったお友達が幾人もあり、その思い出が追分にあるのだそうです。
ー追分にぼくらも山荘を建てましょうか。
お祖母さまにそうおっしゃっることもあります。
ー勿体ないよ。
ーいや、安いですよ。あそこは来る人も学者なんかばっかりですから。
ーやっぱり勿体ないよ。  (p557〜p558)

というところがある。なんでも「あっちのもん」ということは私もどうかと思う。また、その後の旦那様とお祖母さまのやりとりは、なんとも言えない味わいをかもしだしているような気がする。
 同じ「四 DDT」の中に

押し売りのきます。お祖母さまは最初に思ったような冷たいかたではなく、押し売りがくると話を聞かれ、可哀想に、と同情されて、ゴム紐や絹糸ををお買いになります。  (p560)

というところがある。「押し売り」という言葉、とても懐かしく思えた。
本格小説(下)
 「五 電球」の中で

三時になると四人の血のつながらない人間が羽を寄せ合うようにして午後の陽だまりの中でお茶を飲んでお八つを頂きます。何か一日の中で一番平和な時でした。  (p27)

というところがある。血のつながらないもの同士でおやつを頂くことが、一日で一番平和な時であるとは、皮肉なものである。
 また、「五 電球」の中にガスタンク、チョーク、つくしんぼう、お子様ランチ、後楽園、泥まんじゅう、フラフープなどの懐かしい言葉の数々が登場していく。まさに昭和に時代を彩った言葉である。とても懐かしく感じた。
 そして、同じ「五 電球」の中に

ボウズ、英語ができるようになるんだな。そうすれば世の中、何があっても食べてゆける。  (p43)

というところがある。この小説の中で、英語で生計を立ててきた人の言葉であるが、現実の今の世界でも同じことがいえるかもしれない。
 「六 鎌田の孫請け工場」の中に

いつもの四人が揃うと、血の繫がった人間は一人もいないのに、家族が水入らずで揃ったような気がするのも不思議なものです。  (p105)

というところがある。皮肉なものであると思う。
 「八 キャリア・ウォマン」の中に

ある日、太郎ちゃんが日本を出るのにあんなに反対した自分に対する批判をこめてわたしは言いました。
ーアメリカに行ってよかったわね。
ーああ。
ー何が一番よっかた?
太郎ちゃんはしばらく考えていましたが、やがて人の悪い笑みを浮かべながら応えました。
ー世の中に対する恨みも・・・日本に対する恨みも消えた。日本という国に感謝しているくらいだ。  (p337〜p338)

というところがあるが、アメリカという国の懐の深さを感じる。
 「十 ハッピーヴァレイ」の中に

「軽薄を通り越して希薄ですね」
シャンペングラスを眼線まで上げて泡を眺めながら続けた。
「この泡みたいな感じ・・・ほとんど存在していないような気がする。  (p525)

というところがある。東太郎が日本人について表現した部分であるが、世界の中の日本の印象をまさに表現しているように思えた。


 超恋愛小説ということもあり、時間はかかったが、一気に読み終えてしまった。日本のよき情景がよく表現されている小説であると思う。また、とても懐かしい想いでいっぱいにもなった。とにかくとても面白い作品であると思う。
 なにか昔行ったことのある軽井沢に、もう一度出かけたくもなった。