「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド(上)(下)」村上春樹著を読んで(2)

 「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド(上)(下)」村上春樹著を読んでの感想及び気になったところを書いてみようと思う。
 「5 ハードボイルドワンダーランド(計算、進化、性欲)」の中に

私は高級車を乗りまわしながら家には二級か三級のソファーしか置いてない人間を何人か知っている。こういう人間は私はあまり信用しない。高い車にはたしかにそれだけの価値はあるのだろうが、それはただ単に高い車というだけのことである。金さえ払えば誰にだって買える。しかし良いソファーを買うにはそれなりの見識と経験と哲学が必要なのだ。金はかかるが、金を出せばいいというものではない。ソファーとは何かという確固としたイメージなしには優れたソファーを手に入れることは不可能なのだ。  (p78)

というところがある。面白い発想の考え方でもあるかもしれないが、あたっていることが往々にしてあるような気がする。高級車に乗っている人間は信用ができないものなのかもしれない。
 また、同じ「5」の中で

「私のように年をとると、食というのはだんだん細くなってくるです。ちょっとだけ食べて、ちょっとだけ動くようになるんですな。しかし若い人はどんどん食べるべきです。どんどん食べてどんどん太ればよろしい。世間の人々は太ることを嫌っておるようだが、私に言わせれば、それは間違った太り方をしておるんですな。だから太ることによって不健康になったり美しさを失ったりするです。しかし正しい太り方をすればそんなことは絶対にありません。人生は充実し、性欲はたかまり、頭脳は明晰になるです。私も若い頃はよく太っておったですよ。今じゃもう見るかげもありませんがな」
ふおっほっほっほと老人は口をすぼめるようにして笑った。  (p80〜p81)

というところがある。やせていることが美しいという現在の世の中では、このことに対して何を言ってるんだという人がいるかもしれない。でも、こういう発想も、今、必要とさているのではないでしょうか。
 この「ハードボイルド・ワンダーランド」は計算士の「私」と科学者の老人が登場する波乱万丈の冒険活劇である。
 「13 ハードボイルド・ワンダーランド(フランクフルト、ドア、独立組織)」の中に

やみくろは地下に生きるものだ。地下鉄とか下水道とか、そいうところに住みついて、都市の残りものを食べ、汚水を飲んで生きている。人間とまじわることは殆どない。だからやみくろの存在を知るものは少ない。人間に危害を加えることはまずないが、たまには一人で地下にまぎれこんできた人間をつかまえて肉を食べることもある。地下鉄工事で、作業員がときどき行方不明になることがあるな」  (p235)

というところがある。この小説に登場する「やみくろ」について、科学者が説明をしている部分だ。なにか現実の世界にもいそうな存在であるような気がした。
 「19 ハードボイルド・ワンダーランド(ハンバーガー、スカイライン、デッドライン)」の中に

「年をとるととりかえしのつかないものの数が増えてくるんだ」と私は言った。  (p323)

というところがあるが、なんとなく私もそんなような感じがする。若い頃にはそんなものは一つもなかったはずなのだが。
 また、同じ「19」の中で

「一流になるためには学校教育は効率が悪すぎるって祖父が言ってたけど、どう思う?」と彼女が私に訊ねた。  (p326)

というところがある。確かに今の学校教育では一流になれないのかもしれない。スポーツの世界などは特に顕著である。
 ここまでが「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド(上)」の感想と気になったところである。「世界の終わり」についての感想などがひとつもないが、「心」について何箇所か印象に残るところがあった。それは、「疲れを心の中にいれてはいけない」という言葉である。とかく、心の中に疲れをいれてしまいがちになる時がある。そんな時はこの言葉をつぶやいてみようと思う。
 「30 世界の終わり(穴)」の中に

「しかし心を捨てれば安らぎがやってくる。これまでに君が味わったことのない深い安らぎだ。そのことだけは忘れんようにしなさい」  (p188)

という「大佐」が主人公の「僕」に言った言葉がある。「心を捨てる」とはどういうことなのだろうか。感情がなくなることなのか。
 「35 ハードボイルド・ワンダーランド(爪きり、バター・ソース、鉄の花瓶)」の中に

「意識の底の方には本人に感知できない核のようなものがある。僕の場合のそれはひとつの街なんだ。街には川が一本流れていて、まわりは高い煉瓦の壁に囲まれている。街の住人はその外にでることはできない。出ることができるのは一角獣だけなんだ。一角獣は住人たちの自我やエゴを吸い取り紙みたいに吸い取って街の外にはこびだしちゃうんだ。だから街には自我やエゴもない。僕はそんな街に住んでいる  ということさ。僕は実際に自分でみたわけじゃないからそれ以上のことはわからないけどね」  (p269)

という主人公の「私」が言った言葉がある。「心を捨てる」とは自我やエゴがないということのかもしれない。また、「世界の終わり」は「ハードボイルド・ワンダーランド」の主人公の「私」の意識の中の世界なのかもしれない、と私は思う。
 最後に計算士は意識がうすれ、おそらく死んでしまったのだろう。「自我」や「エゴ」のない街に心を捨てて住むのを望んでいたのかもしれない。
 特に(下)については、ストーリーがどんどん変化していき、あっと言う間に読み終えてしまうほどの面白さであった。ただ、読み終えた後にこの小説についていろいろと考えることがある。あの2つの物語はどういうふうにつながっていたのだろうか、とか、村上春樹さんはこの小説で現代社会になにを発信しているのだろうかとか、ふと考えることがある。やはり不思議な世界であるのかもしれない。