特別対談「日本語の危機とウェブ進化」を読んで(2)

 「日本語の危機とウェブ進化」の細かい感想及び気になった部分を書いてみようと思う。
 「『日本語が亡びるとき』の衝撃」の中で梅田さんは

僕は水村さんの小説の大ファンなんです。漱石の未完の遺作を書きつがれた『続明暗』は、なかなか手強かったのですが、『私小説from let to right』や『本格小説』は本当に楽しく読んでいました。今回も、初めてお会いできるということで『本格小説』を再読してきましたが、僕が住んでいるシリコンバレーも舞台になっていましたね。  (p336)

と述べている。『本格小説』は購入したがまだ読んでいない本のひとつだ。さっそく読んでみようと思う。また、手強い『続明暗』と楽しく読んだ『私小説from let to right』もいずれ読んでみることにする。

本格小説〈上〉 (新潮文庫)

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本格小説〈下〉 (新潮文庫)

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私小説 from left to right (新潮文庫)

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続 明暗 (新潮文庫)

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 また、梅田さんは

水村さんはが日本に帰ってきたのは80年代半ばでしたよね。それは、ちょうどプラザ合意のころですが、日本全体がバブル経済に突入していく頃なんですよね。そして多くの日本人は、その辺りの時代に戻りたいと思っています。  (p337)

と述べている。確かに今の時代を考えてみると、そう思っている日本人が多いのは現実的なことなのかもしれない。しかし、水村さんはその時代に日本に帰ってきて、愕然としたそうだ。なんとも面白い人であると思う。
 「私も日本語に帰ってきた人間です」の中で水村さんは

優秀な人が日本語に戻ってこないのも憂国の種ならば、それと同時に、日本に充分な数の二重言語者がいないのも憂国の種です。  (p340)

と述べているが、まったくそのとうりであると思う。
 「インターネットは作家の脅威?」の中で水村さんは

私も梅田さんはわかっていらっしゃるな、って思いました。ウェブの進化によって今まで発信できなかった人が発信できるようになるってお書きになったあとで、ちゃんと「芸術的な領域を除けば」って、条件をつけていらっしゃる。  (p343)

と述べている。これは梅田さんの著書「ウェブ進化論」の中で書いたことに対する指摘である。つまり「芸術的な領域」ではすでに発信はできていたということであるそうだ。私もこの本は読んだが、全然そのようなことは感じられなかった。しかし、この対談記事を読んでみて、なるほどそうなののか、と感じた。
 「『ウェブ進化論』後の絶望」の中で水村さは

今日、英語がいかに「優位」かという話のために持ってきたものがあるんです。ペレルマンという数学者がいますよね。(中略)この人についていろんな言語のウィキペディアで調べてみたのですが、日本語版の記事だとこれだけ、読める大きさの字でA4にプリントしても1枚くらいにしかなりません。それが英語版だと5枚になるんです。(中略)
日本に関することはもちろん日本語版で調べられますが、そうでないものに関しては、圧倒的に英語が詳しい。叡智を求める人は二重言語者になるだろうと私は書きましたが、こんなところでも圧倒的な英語の力を感じます。  (p345)

と述べているが、「英語版の方が圧倒的に情報量が多い」ということを証明してくれる例だと思う。そして、これに対して梅田さんは

このプリントアウトが象徴していますよね。(中略)
僕の専門はコンピューター産業の戦略や将来像を考えることですが、なぜ僕がシリコンバレーにいるかというと、革新的なことが一番おこっている、先端的な場所だからです。そこで起きたことことは数年後に必ず日本にやってくる。だから、日本に起こり得る未来をシリコンバレーから予見してそれに備える。そんなことができるわけです。しかし、インターネット上に載る内容(コンテンツ)に関してだけは、それが起こらなかった。つまり、時間差はあるにせよ、日本も同じようになる、という前提が崩れてしまった。たとえば、水村さんがお持ちになられたウィキペディアの記事について言えば、日本語版はこれからも英語版の分量には追いつかないだろう、ということです。  (p345)

と述べている。悲しいかなこれが現実なのかもしれない。
 また、梅田さんは

英語圏では、インターネットがとんでもなくすばらしいものになっている。単に知が蓄積しているだけでなく、その上での社会貢献の仕組みなどの、様々な分野で、インターネットのもたらす善き面というのが、英語圏では前面的に発達してきている。しかし、日本語圏ではそいうことのほとんどが起きていない。まったくゼロではないにしても、せいぜい局地的にしか起こっていないのです。(中略)
水村さんの論考を読む前は、日本語圏のインターネット空間の内容というのは、日本文化や日本人の特性に影響を受けている側面がとても強いから、かなりの時間遅れがある程度しかたがないから、もう少し待てばいいのかな、と言う気持ちもほんおわずか残っていました。しかし、『日本語が亡びるとき』を拝読したら、なんというか、がっかりしたことが腑に落ちてしまったというか、もっとがっかりしちゃいました。これはもうアウトだな、と(笑)。  (p346〜p347)

と述べている。英語圏では「ウェブの進化」は起きているが、日本語圏ではなにも起こらない。しかも、「アウト」だなんて。悲観的すぎるのではないのだろうか。
 「学習の高速道路は英語圏を走る」の中で水村さんは

英語圏でインターネットのいい部分がたくさん出ているのは、梅田さんが書いておられるように、西洋には、パブリックという概念がきっちりあったのも影響していますよね。ところが、日本にはパブリックという概念が欠落している。  (p347〜p348)

と述べているが、まったくそのとうりであると思う。
 「『すべての人々』は1億2千万人?」の中で梅田さんと水村さんは

水村 国際政治経済誌の「フォーサイト」の連載で梅田さんが書いてらしたけど、飛行機が墜落したとき、日本のニユースで「日本人乗客は何人です」「日本人はいませんでした」ってくり返し報じるのと同じですよね。外国人はこれをどういうふうに思うだろう、ってこの手のニュースに触れるたびに思います。
梅田 その連想ですが、笑ってしまうのは、日本の新聞が、時々社説でアメリカ政府に物申してるじゃないですか。
水村 ああ。
梅田 アメリカの人は日本の新聞なんて誰も読みませんよ。でも、アメリカはこうすべきだなんて書いている。誰も読まないという前提があるから、思い切ったことがいえるのでしょう。でも、そこには何の価値もない。  (p351)

と述べている。私も「日本人はいませんでした」というような報道があるたびに不快に感じる。また、日本の社説の部分は非常に的を得ていると思う。
 また、水村さんは

英語圏で日本の立場をきちんと説明できる日本人の書き手がいないんです。だから言われっぱなし。少数でも優秀なバイリンガルを育てるというのは、外交上でも絶対に必要なことなんです。  (p351)

と述べているが、まったくその通りであると私は思う。言われっぱなしは非常に面白くない。
 「ローカルな日本語を守るパブリックな意味」の中で梅田さんは

ええ、じつは最近は、全体に向けて何かを訴えるというのは、ちょっと諦めムードなんです。その代わり、ウェブ上で私塾をやっています。僕の本を読んだ若い人の中でも、とびきり優秀な連中が直接僕のところにやってきてくれるので、彼らといろいろ一緒に勉強しているのですが、ほとんど全員が海外に出てしまいますね。  (p354)

 と述べている。「私塾」という活動は、前から知っていたが、とても素晴らしい活動であると思う。より多くのバイリンガルな日本人を育てていただきたいと思う。
 また、梅田さんは

その連中がその後どうするのか。日本人を啓蒙したいとか、日本に対して何かを伝えたいという福沢諭吉のようなタイプの人以外は、英語で書いていくんだと思います。地球全体、人類に向けて書けるわけですから。  (p354〜p355)

と述べているが、「その連中」とは「意識して英語を話し、英語で書くようにして暮らしているとびきり優秀な連中」のことである。ぜひ、福沢諭吉のような人物が数多く出てきてくれることを願いたいものである。
 また、水村さんは

すべての人が人類に向かって直接書くのを目指す必要はない。あえて言えば、人類という抽象的な対象に向けて書かれたことと、ローカルな人間に向けて書かれたことがちがうのを日本人が日本語で読み書きして示すことが、人類への貢献にもなると思うんです。すべての人が英語という人類語で書いてしまったら、世界はとても退屈なものになってしまう。  (p355)

と述べているが、私もこの意見に賛成する。
 さらに、この対談の最後に梅田さんと水村さんは

水村 そうそう。だから、たとえばインド系のジュンパ・ラヒリがインド人の生活を英語で書いても、(中略)グローバルなものに回収しきれない世界の存在を訴え続けることこそ、パブリックな行為だと思うんですよ。
梅田 とりわけ日本語は素晴らしいわけですし。
水村 しかも、非西洋語なんだから、やはり、この際苦しいけれど、なんとかがんばるよりほかないと思います。
梅田 そうですね、僕も水村さんのご本を読んでそれを実感しました。  (p355)

と述べている。私はひとまずひと安心をした。お二人にはぜひがんばってほしいと思う。