『1Q84 BOOK1・2』村上春樹著を読んで
「この世の中には、代わりの見つからない人というのはまずいません。どれほどの知識や能力があったとしても、そのあとがまはだいたいどこかにいるものです。もし世界が代わりの見つからない人で満ちていたとしたら、私たちはとても困ったことになってしまうでしょう。もちろんー」と彼女は付け加えた。 (p150)
というところだ。世の中はこんなものだと私は思う。しかし、青豆の代わりはなかなか見つからないだろう、と女主人は付け加えている。
また、こんな言葉を女主人は言う。
蝶と友だちになるには、まずあなたは自然の一部にならなくてはいけません。人としての気配を消し、ここにじっとして、自分を樹木や草や花だと思いこむようになるのです。時間はかかるけれど、いったん相手が気を許してくれれば、あとは自然に仲良くなれます。 (p151)
女主人は蝶が自分のことを友達と思っているとも青豆に言う。ありうることだと私は思う。これは昆虫だけでなく、動物などにはもっと顕著に見られるはずだ。
小松さんが天吾にいった言葉でとてもおもしろいものがある。それは
「小松さん、墜落する飛行機に乗り合わせたら、シートベルトをいくらしっかり締めていたところで、役に立ちませんよ。」
「しかし気休めになる」 (p543)
というところだ。「しかし気休めになる」とは見事な切り返しだ。
『1Q84 BOOK2』村上春樹著の中では
説明されないとわからないのであれば、説明されてもわからないのだ。 (p213)
というとろが印象的であった。一生懸命説明しても理解してくれない人というものが世の中にはたくさんいる。こういう風に考えればば腹もたたず、説明することにも疲れなくてすむのかもしれないし、自己嫌悪におちいらずにすむのかもしれない。
また、牛河のこんな言葉が登場する。
私が言いたいのはですね、世の中には知らないままでいた方がいいこともあるってことです。たとえばあなたのお母さんのこともそうだ。真相を知ることはあなたを傷つけます。またいったん真相を知れば、それに対する責任を引き受けないわけにはいかなくなる。 (p224)
これは天吾に向かって言った言葉である。まったくそのとうりであると私は思う。しかし人はみなすべてをなぜか知りたがる。なぜであろうか。
「さきがけ」のリーダーの言葉で次のようなものがある。
「善悪とは静止し固定されたものではなく、常に場所や立場を入れ替え続けるものだ。ひとつの善は次の瞬間には悪に転換するかもしれない。逆もある。ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』の中で描いたのもそのような世界の有様だ。重要なのは、動き回る善と悪とのバランスを維持しておくことだ。どちらかに傾き過ぎると、現実のモラルを維持することがむずかしくなる。そう、均衡そのものが善なのだ。わたしがバランスをとるために死んでいかなくてはならないというのも、その意味合いにおいてだ」 (p244〜P245)
「均衡そのものが善なのだ」ということ、こういう考え方もあるのかと驚いた部分である。
「心から一歩も外に出ないものごとなんて、この世界には存在しない」 (p250)
という「さきがけ」のリーダーの言葉にも驚きを感じた。そういうものか私には疑問が残る。
それにしてもこの「11章」の青豆とさきがけのリーダーのやりとりには、とてもおもしろいものを感じた。
天吾の父親の入居する介護施設の看護婦が言った言葉で
「看護婦になる教育を受けているときにひとつ教わったことがあります。明るい言葉には明るい振動があります。その内容が相手に理解されなくても、鼓膜が物理的に明るく震えることにかわりはありません。だから私たちは患者さんにきこえなくても、とにかく大きな声で明るいことを話しかけなさいと教えられます。理屈はどうであれ、それはきっと役に立つことだからです。経験的にもそう思います。 (p490〜P491)
というものがある。そんななものなのかもしれない。でもこれを常に継続するのはとても難しいことであると私は思う。
この作品の中に『ミクロの決死圏』が登場する。私もリアルタイムでみた世代ではあるが、とても懐かしく感じた。機会があったらみてみようと思う。
最近の村上春樹さんの作品に共通することであるのだが、ストーリーが面白く読みやすい傾向になってきた気がする。「BOOK3」も刊行されるというが、今からとても楽しみに感じる。
以前ブックマークした『1Q84』関連の記事の中で、おもしろいと思った記事は次のとうり。
http://blog.tatsuru.com/2009/06/04_1313.php
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2009/06/1q84-book1-book.html