「今に生きる親鸞」吉本隆明著を読んで

序章 親鸞との出会い

善人が往生をとげるのだから、悪人はなおさらだ、なぜなら自分を善だと思っている人間は、どこか自力を頼みとするおごりの心をもっているが、自分を悪だと自覚している人間はひたすら阿弥陀仏を頼みとする謙虚さをもっているからだというのです。法然ならば愚者に往生の正機があり、賢者には正機がないというところです。  (p11)

悪だと自覚している人間は阿弥陀仏を頼みとする謙虚さをもっている、ということはどういうことなのだろうか。よく理解できない。しかし、次のところを読むとそれが解決する。

阿弥陀仏の名号を称える以外、他のことをやってはいけませんよというのは、大変難しいことです。。誰でもそうですが、人間は、悪いことよりも、少し善いことをするほうがいいと思っています。けれど親鸞の考え方では、人間の善悪の規模では、どうしてもすべての人間を救済したりできないものだ、浄土の阿弥陀仏の善悪の規模はもっと大きなもので、ほんとに人間を助けつくそうすれば、阿弥陀仏の大きな善悪の規模にたよるほかに方法がないというのです。  (p12)

これが他力本願ということである。人間の善悪の規模ではすべての人間を救済できない、ということは確かにそうなのかもしれない。
第一章 親鸞の生涯
法然の教え

「念仏さえ称えれば、ほかの経文や学問は何もしなくてもいいといったことを言っている人がいるが、自分はそんなことを言った覚えはない。ほかの宗派の僧侶や、学識のある人たちに対しては、それなりに尊重しなければいけない。もっと謙虚にならなければいけない」  (p26)

これは法然が自分の教えを逸脱した信者に対して言った言葉である。ほかの宗派を尊重し謙虚になりなさい、とはこころの広いことである。

法然は時代が貴族や武家だけではなく、一般の庶民無意識をつき動かすようになってきたことを洞察できていたのだと思います。  (p27)

法然は他の宗派のものと違い、時代の変化をするどく捉えていたといえる。
無告と百日日参

「お前は山を下りて、法然のように衆生の中に入っていかなければいけない。律令僧侶令の戒律を破って、女の人と結婚しろ」  (p29)

これは親鸞が「夢告」をうけた言葉である。戒律を破って女の人と結婚するとはすごいことである。それを現実的にやり遂げてしまうことに私はとても魅力を感じてしまう。
越後の流罪 

親鸞の教えは一生のうち一度だけ、真心から念仏を称えればいいという「一念義」です。  (p35)

一生のうち一度だけ念仏を称えればいいということは、他の宗派では考えられないことであると思う。こういうところに私はとてもひかれてしまう。
関東から京都へ 

親鸞がそこで主張したことは、むろん戒律を破るということですから、念仏のほか何もしなくていい。お経などは一切読むな。お寺を建てたり、仏像をつくったり、飾ったりするなということです。  (p38)

これは普通の家でときどき信者が集まって話をするだけでいいということを親鸞はいってるのだそうだ。
第二章 親鸞の思想
称名念仏  

法然は、例をあげて称名念仏がいかに優れているかを説いています。
例えば、富んでいる人は仏像を作って寄進したり、塔を立てて供養したりすることができます。しかし、貧しい人はそんなことはできません。もし仏像を作ったり、塔を立てたりするほうが浄土へ往きやすいというのなら、貧しい人は浄土に往きにくいことになってしまいます。しかし、称名念仏は貧富にかかわりなく、誰でもがまったく平等に称えることができます。
また、もし知恵がすぐれている人や、見聞のある人、あるいは、様々な判断をよくできる人のほうが浄土へ往きやすいのなら、知恵や認識がなく、見聞が狭く、世間のことどもに判断がよくできないような人は、浄土へ往けないことになります。しかしそういった人たちでも、名号を称えることはできます。
それから、様々な戒めを守り、道徳を守り、善行を重ねるほうが浄土に近づきやすいというなら、悪をなしたり、戒めを守らなかった人は、浄土へ往けないことになってしまいます。しかし、信じて念仏を称える限り、阿弥陀の第十八願によって必ず浄土へいけるはずです。
だから、称名念仏は優れている。浄土教は他の教えよりも優れているのだと、法然は言っているのです。  (p51〜p52) 

「信じて念仏を称える」という法然の教えはとてもすばらしい教えであると思う。
浄土教批判の欠陥  

彼らが書いた書物を読めばわかりますが、解脱上人も明恵上人も大変優れた秀才で、修行を積んだ坊さんです。けれども、法然親鸞とそこのところが違うのです。つまり、仏教についても何も考えず、学問や知識もなく、子供を生み、老いて死んでいくごく普通の人たちが考えていることを、自分も考えたか、考えないか。それを自分の仏教の教え、思想の中に繰り入れることができたか、できなかったかという点が、法然、あるいは親鸞と、当時の優れた坊さんとの決定的な差異なのです。(p55〜p56)

法然親鸞の考え方のほうが絶対すぐれていると思う。
三願転入   

<第十九願>
もしわたしが仏になるとき、十万の衆生が菩薩心をおこして、さまざまな功徳を修め、真心から誓いをたててわたしの国に生まれたいと願ったとしよう。臨終のとき大勢の菩薩たちと一緒に、その人の周りをめぐって、その前に姿をあらわさなければ、わたしは仏にはならない。

これは、多くの人々が菩薩心をおこし、たくさんの徳を積み、懸命に願をおこして仏土に生まれようと望むようになったとして、その人々が往生のときにさいして、往生を助け、荘厳にするために、その人々の眼前に、多くの人たちにかこまれて弥陀があらわれることがなかったら、覚りを持つまいという阿弥陀の誓いです。  (p57〜p58)

                                      

<第二十願>
もしわたしが仏になっても、十万の衆生がわが名号を聞き、念をわが国に繋いで、処々の徳本を植え、至心にえ向してわが国に生まれたいと願ったとしよう。これが果遂しなければ、わたしは仏にはならない。

これは、多くの人々が仏の名を聞いて、浄土へ往こうとしないならば、正しい覚りを持つまいという阿弥陀の二十番目の誓いです。  (p59)

そして親鸞が最後に到達したのが、第十八願です。第十八願は、
「もしわれ仏を得んに、十万の衆生、至心に信楽してわが国に生まれんとおもい、乃至十念せん。もし生まれずば正覚を取らじ」
という阿弥陀の誓いです。
つまり阿弥陀の願いは、まず、
「特に信仰のない人間が、仏を一生懸命信じようとして、さまざまないいことを行ったり、いい供養をしたりして、だんだん自分の信仰を得ることができなかったならば、自分を覚りを開かない」
ということでした。  (p60〜p61)

これは親鸞が「観経往生」とよんでいるものの阿弥陀仏四十八願のうちの第十八願、第十九願、第二十願である。特に最後に到達した「第十八願」にとてもひかれるものを感じた。
第十八願  

別の言い方をすると、自分の力でなにか善い行いをしたり、徳を積んだり、経を読んだりすることでできることは、たいしたことではない。人間が自力でできることは、それほど大きな規模のものではない。浄土の宿主である阿弥陀如来が持っている規模のほうがはるかに大きい。この規模に比べれば、人間が行いうる善とか、悪とか、修行とか、自分の力などは、小さな不完全な規模でしかない。だから、阿弥陀仏の誓願にひたすらすがる他力の信のほかに頼むべきものはないということです。  (p64〜p65)

法然との差異  

法然親鸞は第十八願の信を眼目としていることではおなじです。「本業」は第十八であり、もっぱら真心をこめて念仏を称えればいいよいう、ただそれだけですが、法然はこれに、お経を読んだり、善行を重ねたり、徳を積んだり、供養をよくするということが加われば、浄土へ往く助けになり、浄土へ往きやすくなるんだと説きました。
親鸞は、そんなふうに修行に励んだり、善行をすることは、かえって往生の妨げになると説いて、放棄しました。  (p69)

これが法然親鸞の違いである。どちらかというと、法然をまったく否定するわけではないが、親鸞の教えのほうに私は共感する。
一念義    

一念は功徳のきわまり、一念に万徳ことごとく備わる、よろずの善はみな包括されるのである。(『一念多念証文』10)

どうして一度だけでいいのでしょう。親鸞はこんなふうに言っています。
人間は、いつ、どこで、どういう病気で、どういうふうに死ぬか、誰にもわからない。それなのに、あらかじめ臨終の念仏を特に重要とみなしたり、至心の念仏を分散させて多念であればあるほど良いと言うのはおかしいではないか。法然が言うように、百万遍称えるほうがよりいいと言って至心をたくさん強要するのもいいとはいえない。至心の念仏を一度だけ、あとは仏恩に酬いるため称えるとみなすべきだろう。

念仏は一念に至心をこめることだ。一念、十念、三念、五念の者も弥陀はお迎えになるというのは、念仏が遍数によって左右されるのでないことをいい表している。(一念多念証文』19)  (p72〜p73)

一念義という教えはすべての人たちに平等であると思う。なぜなら、貧富の差や身分の差や年齢の差などなくできるからである。
破戒僧(p77〜p78)  
ここは親鸞が坊さんらしことはあまりしまかったということを記している部分である。とても面白い。
本願他力  

また他力ということは、弥陀仏の誓願のなかに、選択摂取されることをおしゃった第十八願の念仏往生の本願を信楽することを他力と申すのです。如来の御誓いになられたものですから、他力は義がないことを義とするのだと法然聖人がおしゃったことです。義ということは、計らう言葉です。行者が計らうのは自力であるので、義というのです。他力は本願を信楽して、往生は必ず決まっていることゆえに、ことさら義はないというのです。(『末燈  』2)

往生というのは、何事も凡夫の計らいではなく、弥陀仏の誓願にまかせたからこそ、他力なのでしょう。さまざまに計らいあっておられることは、おかしいことと思います。(『末燈  』7)

親鸞はこのように、実現すべきことを、「深くしんずること」「念仏すること」と、「みずからは計らわないという心の状態」つまり、「まかせるとという心の状態」、ただこれだけだと、繰り返し言っています。しかし、このことは、弟子や同信の人たちに、一番理解されにくいことでした。  (p80〜p81)

「深くしんずること」「念仏すること」「まかせるという心の状態」ということが本願他力である。なかなか、いままで理解できなかった「本願他力」がなんとなくわかってきたような気がする。できるだけこうありたいものだ。
悪人正機  

「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」
という親鸞の言葉は、悪人のほうが浄土へ往ける近道を持ってということを意味します。普通の人の言葉言えば、「悪人でも往生できるのだから、まして善なる行いをつんだ人はなおさら浄土へ往けるはずだ」となるところです。が、親鸞は反対に、「善人すら往生を遂げられるのだから、ましてや悪人のほうがなおさら往生を遂げられるのだ」という言い方をしています。これは、どんな仏教の祖師も言わない言い方です。 (p83〜p84)

このへんのところが親鸞という人間をよくあらわしているところだと思う。とても常人では発想しないことだ。

悪人は、もともと自分が悪いと思っているから、善いことをしようにもあまりできそうにもない。自力で何か善いことをしようとか、自力で人を押し分けて善いことをしようとか、そんなことを考えないから、このほうが計らいというものがない状態になりやすく、仏の本願に近づきやすい、そんな言い方もしています。
別の言い方をすると、善い行いをしようとか、修行しようというのがどうしてだめかといえば、浄土の宿主である弥陀の持っている大きな善とか、大きな悪とか、大きな光明とか、そういったものを初めから信じていないからだ。だから、ちっぽけな人間の善悪にこだわって、それをつきすすめれば浄土へ往けるというようなことを言うのだ。それでは「化土(げど)」、つまり仮の浄土へ往くしかない。だから、ほんとは悪人のほうが浄土へ往きやすいだ。こんな風にも言っています。  (p85〜p86)

この部分を読むと「悪人正機」という言葉がより理解できやすくなると思う。
第三章 親鸞の言葉 
自然法爾  

「自」というのはおのずから、ひとりでにということだ。「然」はしからしむることで、「自然」とは、行者のほうから計らわないのに、向こうから如来の誓いによって浄土へ往く道筋がひとりでにできてくるのだ。「法爾」というのも、如来の誓いがあるから、それによってひとりでにそうなっていく、行者のほうから計らわずにひとりでにそうなっていく。
おのずからしからしむる誓いとはなんであるか。それは人々を無上仏にならせようという誓いである。では、無上仏とはいったいなんのことか。無上仏とはかたちのないものだ。かたちのあるものは無上でつはんとはいわない。かたちがないから、それが「自然」である。おのずからというのはかたちのないという意味である。だから、かたちのない無上仏、あるいは無上でつはんにいたらしめるということは、結局、「自然法爾」ということの、本当の意味になるのだ。  (p150〜p151)

「自然法爾」ということを説明している部分である。物事が自然とひとりでにそうなってしまうとは、とてもいろいろなことに生かしていける考え方であると私は思う。
第四章 今に生きる親鸞  
知を捨てよ  

親鸞には、この課題そのもが信仰のほとんどすべてで、たんに知識を捨てよ、愚になれ、知者ぶるなという程度の問題ではありませんでした。つきつめてゆけば、信仰や宗派が解体してしまっても貫くべき本質的な課題だったのです。
これを通俗的に解釈すると、知識というものは殺すものなのだ、と親鸞は言っているのだと思います。知識など自慢するやつは一番バカなんだ。知識を極めるのはいいことだが、極めたら、あとはそれを殺すという道を通らない限り、こんなものを自慢しているやつはダメなんだ。知識を殺せなければ嘘なのだということです。  (p187)

この吉本さんの解釈の仕方に私は共感する。「知識を殺す」とはなかなか難しいことであると思うが挑戦をしてみよう。

「最後の親鸞」を読んでもやもやしたところ、理解ができなかったことがこの著書によって解決された。また、語句の説明がついており、仏教用語がわからない私でもスムーズに読むことができた。
これから生きていく上で参考になる部分がたくさんある著書であると私は思う。