『だいたいでいいじゃない。』吉本隆明、大塚英志共著を読んで

第2章で吉本さんが「『アメリカと私』と『やがて哀しき外国語』がそっくりのような気がする。(p115)」と述べている。村上春樹江藤淳的であるというわけだ。また、村上春樹江藤淳の『成熟と喪失』をテキストに戦後文学を論じている、とも吉本さんは述べる。このことにより私はよりいっそう「江藤淳」という人に興味がわいてきた。今後読む作家のひとりになると思う。
同じ第2章の中にこんなものがある。

僕がクビになった当初は映画館なんかに真昼間行くと、ホステスさんみたいな人しかいないわけですよ。そうすると、「あらア、俺もとうとうこうなってきたか」という感じになって、なんとなく後ろめたいような感じになったんです。でも、それは古い発想でそうなってるんで、いまの人だったらリストラされても逆だと思って、「俺がリストラしてやったのよ」というふうな発想が、僕はそこまで可能だと思うんですよ。  (p136)

と吉本さんが自らのエピソードを述べている。今の世の中はこういう発想をしていかないと、生きていけないのだはないかと思う。

第2章で大塚さんが文学のことについて次のように述べている。

いままでは文学の予備軍みたいな人たちが純文学の忠実な読者で、その中から選ばれた人間が作家として出てくる。ところが現在はそうじゃなくて、小説の一番拡がった大衆化の裾野の極限のレベルにある人たちが小説の接する消費の仕方が、「読む」ではなく「書く」に変わっていく、そういう事態があるような気がします。  (p189)

「読む」から「書く」に変わっていく、という表現はとてもうまいと思った。確かに今はそういう時代なのかもしれない。
第3章の「分岐点から先の柳田國男折口信夫」の中で吉本さんは折口信夫柳田國男を明治以降の代表的知識人と評している。ここの部分を読んで私は「折口信夫」という人物がとても気になる存在となった。
同じ第3章に「文学と非文学の論理」(『文藝』1988年冬季号)が紹介されている。これは江藤淳吉本隆明との最後の対談だそうである。ぜひ読んでみたいものだ。また、この対談の中に堀辰雄という人物がでてくる。どんな人だったのだろうか。とても気になる。
第4章に

それで、年寄りの医者というのは、こっちがインチキしているって知っているんです。「今回は少し多いんじゃないでしょうか」なんてことを言う。こっちも内心悪いことしたと思っているんで、そう言われるほうがかえってこたえる(笑)。ところが若い医者は「お前みたいなことをしているとどうなるか、足を切断した患者を見せてやろうか」なんて言う。僕はカンカンになって怒って、もうこいつのとこなんか来ないということになった(笑)。糖尿に関する限り、若い医者は絶対に駄目です。年寄りの医者にとぼけて「少し多いですね」なんて言われると、ちょっとはこたえるんですが、またケロリと忘れて、やちゃえやちゃえとなります。これが現状です。  (p272)

という吉本さんの話がある。とてもおもしろく読ませていただいた。まったく私も同感である。
その他にエヴァンゲリオンガンダム、それからオウムなど興味深いものが多数あった。おいおいアニメもみていこうと思う。オウムについては村上春樹の作品で。

だいたいで、いいじゃない。 (文春文庫)

だいたいで、いいじゃない。 (文春文庫)