「最後の親鸞」吉本隆明著を読んで

 この著書の中に「和讃」という論稿がある。その中に

親鸞の和讃には、人間の生死の無常を誌的に色揚げするというモチーフはまったくといっいっていいほどあらわれなかった。その根底にあるのは、現世の憂苦も愛憐もそう闘も、すすんで俗にしたがって受け入れ、そこに身をおくことが浄土への超出の契機だというかんがえであった。現世的な生のはかなさを受け入れ、苦を受け入れて執着つつ、自然に死がやってきたらこの煩悩の故里にもにた現世にわかれるべきであるという思想が、親鸞にはあった。(中略)というような悪人に、かえって浄土へ超出する正機が存在するといった逆説的な地歩にいたるまでに、親鸞の思想は参入していた。現世の悪機を、じぶんが一身に自己のものとしてひき受けるという思想である。これは現世の悪機を、じぶんが一身に自己のものとしてひき受けるという思想である。これは、現世の憂苦の世界と、浄土が壮麗な楽土だということを、世俗の流行として唱い伝えるということとまったくちがう。  (p90〜p91)

というところがある。「俗にしたがって受け入れ、、そこに身をおく」そして「自然に死がやってきたら現世に別れる」という思想。なにかこうあるべきではないかと私は思う。さらに「現世の悪機を自己のものとしてひきうける」とはとても凡人の私にはできない。しかし、「悪人がかえって浄土に超出する」ということは私には理解できなかった。なぜ悪いことをして浄土に超出するのだろうか。
 また、「ある親鸞」の論稿の中に

賀古の教信が規範として蘇ったときの親鸞の姿は、きわめてラジカルであった。かれは僧体を拒否し、出家遁世者とみられることを拒否し、善人づらをして勧進して歩く「人師」の姿を拒否する。だれでも、ここで<断食するとき悲しい面持ちをしてはならない>という新約書の主人公をおもい浮かべることができよう。牛盗人とよばれてもかまわないが、異形の風体や思想をもつ者のように振舞うなというとき、<同化>や、<強化>や<布教>の概念は、まったく否定されている。ただ環相の眼をもった一介の念仏者が、そのままの姿で<衆生>のなかに潜り込んで、かれらの内心に火をつけて歩く像だけがみえてくる。こういう親鸞は、現在のこされているどんな<御影>(肖像画)とも似てない。また、徹底的に僧形を拒否している親鸞をたれも描いてはいない。(p107〜p108)

というところがある。親鸞という人物がますます好きになってくることが表現されている。「衆生のなかに潜り込んで内心に火をつけて歩く」とは、私はこうあるべきだと思う。
 この他にも心に響くところがが多数ある。読み返す必要のある著書であると思う。また、吉本隆明さんの「親鸞」に関する著書をもっと読みすすめてみることにする。

 最後にこの著書の中で私がわからない語句を記しておく。
wikipedia:和讃
wikipedia:衆生
wikipedia:勧進
wikipedia:喜捨

最後の親鸞 (ちくま学芸文庫)

最後の親鸞 (ちくま学芸文庫)